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2007年 04月 23日
「彼はサッカーが大好きなんだよ。ちょっと話し相手になってやってよ」
昨年の夏、「山の家」で黙想の指導司祭がそう言って夕食時に隣の席に連れてきた神学生は、神父の卵というより、地上に留学中の天使みたいな子。…なんて、まるで「浮世離れ」の烙印はいささか失礼だとは思いますけど、本当に小さい少年がそのまま大きくなったような青年だという印象を受けたのは偽らざる事実です。 神学校に入って神父を志すような人は、どちらかというと人生の辛酸をなめ尽くしたような、ちょっとスレた人か、競争社会に生きるには繊細すぎる、変人と紙一重のタイプも少なくないわけですが、この青年のように悪いことを知らずに育ったような、あっけらかんと無邪気なタイプは稀なんです。それで、私のように人の顔をなかなか覚えない不埒者の記憶にも強く残ったのでした。 その青年が昨日、私たちの教会に現れたのにパチクリ、主任司祭が「彼は今年からここで司牧実習をする」と紹介するもんだから、さらに目が点。天使が山をも下りてきて町を徘徊するか、と。ミサ後、私を見つけると神学生のほうから「わーい。お久しぶり〜。来ちゃいましたよぉ」と覚えのある明るい調子で挨拶してきたので、「相変わらず、楽しそうで何よりだね」と祝福の言葉をかけておきました。 先日、新司祭として叙階された友人に「神学校を途中でやめたくなったりしなかったか」と尋ねたら、「最初の1年目はいろいろ悩んだけど、司牧実習で教区へ派遣されてからは四の五の言ってる余裕がなくなって、軌道に乗った感じがした」と笑っていました。後輩になるこの神学生は、それとはまったく違った道を辿るんでしょうね。「毎日が楽しくて楽しくて仕方がないまま、山の神学院を出てきちゃいましたよ」というのが本心なら、彼にとって大変なのは、これからここで偏屈な一般信徒たちと交わる日々かもしれません。 一人ひとりを違ったやり方で、神さまはご自分の計画に招きます。司祭や修道者の召命ばかりでなく、その他の職業や家庭生活に。自分自身がどんな形で人間の世界への貢献を求められているのかも未だ不明ですけど、とりあえず、このたび神さまが私たちのもとに遣わした天使、もとい純朴な神学生君が、どんな足取りを示すかにも注目です。
by spielfeld
| 2007-04-23 22:45
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