|
2006年 01月 18日
16年もかかったと言うけれど、かかったのは時間ばかりで、何も明らかにしようとはしなかったという印象の最高裁判決でした。精神鑑定の判断が割れているなかで、最高裁が1審、2審を支持した理由は不明瞭のまま。結局、裁判官は世間の顔色をうかがう時間をとって、多くの国民が気に入るようにしただけでしょう。それは法曹ではなく政治家のやることです。
<連続幼女誘拐殺人>宮崎被告の死刑確定へ 最高裁上告棄却 <連続幼女誘拐殺人>16年、宮崎被告の心の闇読めず 人格障害と精神障害の違いなんて素人にはわかりませんし、どんな異常があるにせよ、犯罪を犯した以上、その行動の責任は被告本人がいくらかでも負ってくれなければ困ると考えるのは一般庶民の普通の感覚です。ましてや自分の異常な嗜好のために幼い命を奪ったとあれば、その異常さの原因がなんであれ、無罪放免にはしたくないです。心情的にばかりではなく現実問題として、それは再犯を促すようなものですから。 ただし「だから極刑は当然」という思いは、私も含めた多くの人が「自分は未来永劫、精神障害など起こさない」と思い込いこんでいることからわき上がる感情であって、理性的な判断ではありません。「もし自分が精神障害によって人を傷つけたなら、甘んじて罰を受ける」なんて言ってる人でも、本当にそんなことがあり得ると考えている人はほとんどいないでしょう。つまり自分のことじゃないから、「そんな気違いは殺してしまえ」と簡単に言えるんです。 だいたい人間なんて、魔女狩りが横行した中世期より性質的にはほとんど進化していませんから、下手人または疑わしい人物を抹殺することで、一時的にでも安心を得たい気持ちがあります。そういう市民感情を理解しながらも、法治国家の司法は前時代的で野蛮な欲求を全面的に支持してはならないはずです。 2009年までに裁判員制度が導入されるため、今後は一層、短期間での結審が求められると考えられていますが、それでますます裁判が手抜きになり、気分による判決に偏るのは本末転倒です。裁判員制度はいろいろな立場の人々からいろいろな正しさを引き出すために用いられねばならず、そのために判断が分かれて時間がかかるなら、それは時間をかけて審理しなければなりません。 現代人はとかく便利であること、迅速であることに価値の比重を置きがちですが、人を簡単便利に裁くことを許した結果、非人間的(あるいは超人間的にして野性的)な制度のデメリットをより多く被るのは私たち庶民です。 念のため書き加えておくと、私はこんなブログで宮崎勤を弁護しているわけじゃありません。私は彼という人物を知らないし、捜査や裁判の過程にも詳しくありませんから、彼を弁護も断罪もできません。 もし知っていて、その凶悪さを疑っていないとしても、だから死んでしまえと短絡的に言い放つことはできませんけどね。犯罪者を死なせてそれで終わりというのは、「宅間守」じゃなくてもむなしさばかりが心に残るのは必至だし、どんな立場になろうと、他人がどう言おうと、私自身は自分に人を殺す権利があるとは思えないですから。
by spielfeld
| 2006-01-18 13:03
|
ファン申請 |
||